ニキニキニッキーニッキ書評

ちょっとした発見と書評が

最近のJPOPの歌詞が抽象的でもやもやするらしいが、逆にウン十年位前の歌詞は具体的すぎて面白かったりする

以前祖父がテレビで録画しておいたやつを見せてくれて知りました。古い歌を歌う番組なのですが、それがどうやら祖父の若き時代の頃に、飲み会などで皆が歌っていたような歌らしい。
厳密な歌詞などは忘れてしまったのだが、思い出せる限り再現しよう。雰囲気と曖昧な記憶から私が勝手に作ったものですので。(内容はどれかの歌詞と同じかも?)

コケコッコー コケコッコー 小屋の鶏が鳴いている おお鶏よ今日はタマゴが1つだけ タマゴがひとつだけ タマゴがひとつだけ 私も泣きたいぐらいだよー

ちょっと再現度が低かったかもしれない。
十分伝えられないのが惜しいが、これが非常に面白かった。メッセージ性がない。だからなんやねん!!!!という歌詞である。我々も小学校の頃歌った歌詞には結構これに近いものあったかもしれない。魔王とか、ね。

昔は歌ってのがそういうものだったのだろう。現在は大衆向けに販売するとなると、多くの人の心にヒットさせるために、内容が抽象的になったのだろう。ビジネスなのだから悪いことでは無いと思う。ただ、飽きられるのは必然だから、今後はどうなるやら。そもそも大衆に向けて売るという形態が間違いなく変わるから、歌の形も変わって当然だろう。

多種多様になるのは必然として、その中でもメジャー側の歌はどうなるかと考えると、多分歌詞に意味を与えないような、純粋に音として歌うってのがあるのではないだろうか。ちょっとカラオケで歌いづらいが・・・・
そういうのだとマキシマムザホルモンってのがこれに当てはまるかもしれない。耳で歌詞を聞き取らせようとしてない(たしかそう作ってたような)
後は、ひとつの単語だけで歌い切る、とかもネタとしては流行るかも。コレ自体は多分すでにあるだろうから、リリースする曲が全部一単語系みたいな歌手ね。
あとは詩みたいな歌はどうだろうか。これも既にあるかなあ。抽象的、というよりかは、文法はあってるのに意味がぜんぜん取れない系。「海の底と宇宙の中に永遠のパスタであるかもしれない。そう言って彼はペットボトルを血液に殴り倒した」みたいな。意味が破壊していても単語選びや運びによって結構スタイルを選べるので、面白いかも。キザ系とかナンセンス系とかが出来ると思う。

個人的には、音程と歌詞を併用するという手法自体が変だと思うので、大衆向けである要素が歌文化から消えれば、インストロメンタルが主流になるべきなのでは、と思う。音と歌詞を合わせるって、よっぽどセンスよくないとかっこ良くない。例えば、小説にバックミュージック流すようなものではないか。それってかなり勇気いるよね。野暮ったいドラマみたいになったらこっ恥ずかしいぞ。

そうはいっても、ドラマとかでいい雰囲気にしんみりする曲を流されるとウルっとしてしまうから、う~ん、悔しいってほどではないが、ずるい。

テレビ番組ってネットで見れないのかなあ

公共の電波経由で無料で見れるんだからインターネットで見れてもいいじゃない。素直な意見だと思うのだが、テレビ業界ってのはどう考えているのだろう。
テレビの本体の方が売れなくなっちゃうから駄目なのかな?見る側としちゃあ、どうでもいいのだけれど。

テレビ番組ってなんで時間に縛られなきゃいけないのだか。予約録画って変。WEBサイトだったら見たい!と思えばクリックですぐみれる。時々野球延長で録画がずれ込んだりするし。会社に遅刻するのはめちゃおかしいのに野球の番組は許されるのは私は許さんぞ!

  1. 時間とかに縛られないで、見たいときに見れる
  2. 検索ができたりジャンルごとに別れてたりする
  3. 内容によって無料だったり広告がついてたり、有料のやつがあったりする
  4. 購入したらパソコンとか携帯とかから自由に見れる

つまり他の会社は普通にやってそうな風にテレビ番組も見れるようになればいいのに。

人の行動原理は「趣味」であってほしいなあ

きわめて個人的な大きな要望といえば、経済的に楽で、好きなことをする時間が増えてほしいということ。
なんだかんだお金が無いので真面目にやってきているけど、7日中5日が働いてるって、やだなあ。私は一週間に一日くらいならいいかな、とは思う。こういうのって真面目な大人からしてみたら「甘えるな!!!」って感じなんでしょうけど、一度社会の常識とか全部おいといて、自分が何をしたいかを考えるべきですよね。周りの常識に流されて好きでもないことをいやいや仕事をして、それを「良いこと」と無意識に自分に言い聞かせたりするのは嫌だ。

ちゃんと調査なんてしてないが、この世の仕事の半分くらいはやんなくても良いような仕事なんじゃないか、って勝手に想像してる。だから、だいたい週2,3日働けば社会回せるのでは、とか思ってしまう。しかしそうじゃないのは、それは人々が仕事をしたいからだ。仕事をしないとやっていけないからと考えてるからではないだろうか。
だったら、仕事以外のやりたいことを見つけてもらわなきゃ「仕事やってる場合じゃねえ!」って気づいてもらえないよなあ。これは、50年単位ぐらいで動くような重要なことだと思う。
そもそも仕事ばっかりやってるから、仕事以外のことをすることに注意が向かない。悪循環ではないか!最近は就職が大変だというけど、それってつまり仕事が足りないということなら、一人あたりの仕事量を減らせばよいではないか。

理屈をこねるのもよいが、ちゃんと、私自身が週に2,3日の労働で生きていけるようにしなきゃなあ。

機械のレジで、お釣りを自動排出するものがあるけど、あれってお客側につければよくないか?

題名でいいたいことが終わってしまった。あのジャラジャラでてくるのをこっちに向けて欲しい。機械で精算するなら、お金の投入とお釣りの受け取りは客側がやった方が断然速い。
既存のレジのシステムに置き換えて作ったほうが楽だからそうなったのか、単純に既存のシステムに縛られて思いつかなかったのか。
でもそのうち出てきそうですね。客が全部やるレジ(セルフレジ?っていうのかな)は使ったことがある。あれは慣れないから難しいし重量で色々判断しているようで、その時は機械側もちゃんと動かなかったので、駄目でしょう。
バーコード読み込むのはお店に頼んだほうがレジのスピードが上がるしここは暫く変わらないだろう。

一番いいのが、商品を持って外に出れば、自動で引き落としてくれる、みたいなのがいいですよね。高速道路のETCみたいな。後何年で出来るのだろう?

ネットの使い方を子どもたちに教えたほうが良いのだが、教えられる先生がいない

ここ最近、若者の珍妙な行動の写真がネット上で広く拡散されて・・・、というものが流行?しているようで、「将来が絶たれる馬鹿行動」と評されている。本当にそこまでなのだろうか?という気はするが、場合によってはそのバカ行動をしてしまった若者の名前でgoogle検索をすればその写真がヒットするのだろう。
これは場合によっては、取り返しの付かない結果にもなりうる。そもそも現在の法律では、そこそこ酷い犯罪をしても、例えば懲役数年であれば、それはつまり死刑とまででは無いという意味になる。刑期が終われば形としては許されたということになる。(社会的にはまだ許されない部分もあるかもしれないが)
つまり、罪の量というのを定量化しているということであり、償えればチャンスがまた来るという、人類の優しさである。間違いを犯してもやり直せるはずだという精神によって作られたものである。

しかし、ネット上のデータとして刻まれてしまった画像は、永遠に消えることはない。文章と画像は大量に転載され、検索すればそれが掘り出せる。それらは、一部の悪意によって特定され、SNS等の大衆によって拡散され、ブログやまとめといった営利活動によって爆発される。
簡単な例で言えば、バイトの面接を受ける時、店長が何気なく本名を検索して、「こんなことをする人間だったのか」となったりする。 法律的に許されたが、社会的に許されない。通常よりも多く罰を受けているのではないだろうか。

はっきりいって恐ろしい。大衆が、特に強い気持ち、悪意、批判、感情もなく、その加害者を必要以上に陥れる装置であり、それが自然発生してしまったということだ。
こういった現象がいつまで続くかはわからない。ネットが大衆に浸透したからこそ成立する現象なので前例もない。ただ、歴史上の、史実として書かれる人物の中にも、なかなかの奇行をする者もいるようなので、「馬鹿をやってみちゃう若者」ってのはどの時代にもいて、特に現代特有のものではないだろうというのは推測できるし、「これだから若者は・・・」みたいな古文書は多分残っているよね。むしろ平均してみれば最近の若者のほうが史上で最も分別がありそうな気がする。

まず少なくとも、今の大人達がしっかりネットの使い方を教育しなければならないだろう。現実感覚として、ネット上での行為は生理的なものと完全に独立しているので、それは「慣れ」だけで使うと想像できなかった失敗を子供は起こす可能性がある。子供であれば許すべきようなことも、運が悪ければネットには永遠に刻み込まれてしまうだろう。

さて、それを教えられる人はいるのだろうか。親が子に教えられるのならばそれでよいのだが、こういった内容は学校でこそ教えるべきであるとも思える。しかし、現状はむしろ子供のほうがTwitterfacebookについて知識があるのではないだろうか。先生たちは「個人情報を守るということがいかに重要であるか。それはあなた達が思っている以上に危険であり、またその危険性というのが、現段階では見積もれないということ自体が大変危険なことである」ということを、その子たちにたしかに伝えられるのだろうか…

冷静に振り返れば、原始時代の人類と比べるとこの数千年で人類は様々な形態の社会を形成して、そして今にいたり、ネットというものが浸透したのもここたった10年である。「ネット、大衆、若気の至り」という3つが重なりあうという条件によって引き起こされる現状は、防げたものだろうか?今から防ぐ活動はしていくべきだとして、それをたった百年レベルの歴史の学校というシステムに求めるのも野暮なのではないだろうか?モンスターペアレントという問題があるが、あれは「自分で注意させるべきものを、学校側に求める」といったような問題行動だ。もちろんモンスターペアレントというものは問題だと私も思うが、では親自身が子を教育するというのはどれほど信用できるのだろうか?学校に委託しろと言っているのではない。人が子を教育するというシステムは間違いなくある種の素晴らしいシステムだ。ただ、未来は予測できない。5年前に「SNSで馬鹿な画像をアップロードしちゃいけないよ」と教えられた親が日本に何人いたのだろうか?(でもゼロでは無いと思う)

歴史上の人々は、その人達より過去の歴史を振り返ることはあまりできなかったと思う。歴史というもの自体認識していなかったかもしれない。我々がそういった時代を振り返ることができるのは学校教育の賜物であるからだ。だからこそ、我々は未来がどう変化するか分からないということが分かった世代とも言える。ネットというものが世間や文化というものの変形スピードを早めている。そのような媒介は未来にまた現れるのか?そういったものが今度は何を変化させるのか?例えば戦争を引き起こして、大戦のような時代がまた訪れるのか?・・・

このくらいまで考えると、ネットで馬鹿な行動を拡散されてしまう件について考えるのも、馬鹿らしく思えてくる。

寝不足って健康面どうこうじゃなくて、注意力散漫になって最悪事故死とかするから気をつけよう!!

今日、自転車をこいでいて、盛大にすっ転んでわりとひどい擦り傷を負った。

本当に痛くて、地面に転がりながら「痛い痛い…」と肘を抱えて、30秒くらいして起き上がってから、またしばらく痛さに唸って、なんとか自転車を押して歩いて、しばらくしてまた運転復帰した。

簡単な経緯

その時転んだのは進行方向にちょっとしたあった段差にタイヤを奪われたからであるのだが、これが本当に危なかった。

打ちどころが悪くて、もしも頭から落ちていたら本当に危なかったし、自転車は人のほうに向かって高速ですべって危なかった。
器物を破損して莫大な借金が生まれていたかもしれないし、人に怪我をさせてしまったり、最悪命を奪ってしまっていたら、どうなってたのだろうか。

見た目としては、ちょっとした段差に取られて転んだカッコ悪い人な訳だが、これはちょっと危険すぎる。周りの物や人に危害が及んだかも知れないし、場所が悪ければ車との接触など、どんどん死亡率が上がっていきそうだ。いろいろ反省すべきであった。

要因

要因としては、探そうと思えば結構あった。

1.寝不足であった
2.雨が降っていて地面が濡れていた
3.前にいた人を避けようとした
4.良い雑貨を買ったので気分が高揚していた
5.電車に乗り遅れそうだったので急いでいた

反省

なんとも不注意、無責任、無計画である。特に寝不足である。

普段であれば自転車をこぐときは人にぶつからないよう注意するし、他人よりはやい段階でブレーキをかけるよう心がけているし、路面にも気を配ってタイヤとの相性がいいかも考慮して走行しているつもりであった。思い返せばその時はまったくこれらを考えていなかった。
電車に遅れそうになるのに雑貨を購入しているのもいただけない。そういう判断力の鈍りも寝不足が原因であると思えた。

ちょっと本腰を入れて、夜更かしなどをしないようにしなければと思った。命にかかわることだぞこれは。

対策

やむを得ず寝不足の時は、何よりも「判断力が鈍って危険だから、行動は控えよう。安全に考えよう」ということに気をつけることにしよう。
寝不足になったら、自分の予定は削って、外部的な予定以外、極力なにもしない。家でゆっくりするとか、近くの喫茶で休むとかをしたほうがよい。

それでなによりも大事なのは、こういった対策もしないですむように、決めた時間にちゃんと寝るようにすることだ。今後は命をかけるつもりで布団に入ることにする。

自己啓発系の本の海の中から普通の実用書を掘り出そう

数日前に実用書の選び方について書いたので、その時には触れてなかった、私の本の選び方をまとめときます。特に大した方法じゃなくて、そこまで特別な選び方とは思わないけれど。参考までにどうぞ。

まずは古本屋に行く

普通の本屋でも悪くないのですが、自己啓発系は短命な本だと思うので、少し古いくらいが濾されてていいのかもしれません。プログラミングの本ならきっと新しい方がいいでしょうが、効率のいい仕事の仕方についてとかならすこしくらい古くてもよいでしょう。それより出版社等が混ざって並んでいたりするほうが閲覧性は良い。そして何より安い。

自分が何の本を探しているのか、ぼんやり考える

前の記事にも触れたとおり、目的が決まってない場合の本探しですので、ぼんやりと抽象的にでいいので方針を決めます。一般性の高い本を探すと良いでしょう。「仕事は朝に終わらせろ!」みたいな変な理屈よりかは「段取りについて」とかで探したほうが、適用できる範囲が大きくて、得かも。
良さそうな題名の本を見つけたら著者を見ましょう。

著者を見る

似たような本を沢山何冊も書いてる人はほぼ無条件で切ってよいでしょう。処女作ならまだ見ても良いかもしれないが、そんなことを調べるより他の本を眺めたほうが良い。
ここもクリアしたら手に取ります。

本の目次を見る

目次の論理がどうなのか一応見る。そもそも物理や数学ではないのだから、どんなに書いても完璧に論理的になるはずはないのである。良書でも、目次に論理性があるとは限らない。だが、念のため考慮しておこう。中には本当に、筆者が我を見せたいだけの内容のものもあるので、そういうのを察知しよう。
目次においては論理よりも「切り口」を見たほうがよい。例えば、あなたが「やる気を出す本」を探している時には、手にとった本ではどうやって「やる気」というものを捉えているのか、ということに気をつけて読む。やる気は必ず出ますよ!みたいなことを言ってる本ではだめ。やる気が出なかったとしても本は売れてしまうのだから。

中身を見る

文章をちらちら見る。これはだいたい、てにをはとか、通常の文法ができているか確認すれば良い。気になったのならじっくり読んでも良いが、それは”自分の関心が信用できるなら”よいでしょう。自己啓発系は何かと読んでいる人をその気にさせるので、基本的に疑ってかかりましょう。
それよりも文に添えられてる図を見ましょう。グラフは書いてあるけど数値が書かれてなかったり、文章で済みそうな情報を無意味に図にしたりしているのは駄目でしょう。

  以上の手順では、実際に手にとって本を見るのは一冊30秒位で済む。本棚をじっくり見回しながら一つの棚から2冊くらいまで見回しながら、その日に買う本を数冊選んでみてはいかが?全体で30分もかかりませんよ。 自己啓発系の本を買ってしまえば、お金と時間が無駄になってしまい大変であるが、何よりそれを回避するためには自己啓発系の本をじっくり検討しないということが大事でしょう。こうやって解説をできるくらい自己啓発系の本に近づいてしまったことがとても恥ずかしい。